開け放たれた窓が、5月の優しい風でカタカタと鳴っている。
古文の授業中、葵先生ののんびりした声が、教室に響いていた。

 葵 :「ちなみに5月は、端午の節句で、家々の軒に菖蒲の……」
 葵 :「端午の……節句……」
 葵 :「ふふっ♪」

何かを思い出したのか、それとも何かを思い浮かんだのか、頬を赤らめて微笑む葵先生。
それが何かなど分かるはずもなく、俺は頭をかしげた。
俺が犬丸学園に入学して、約1ヶ月――
教壇で『うふふふ♪』と謎の微笑みを浮かべている、この葵先生について知っていることと言えば……
うちの近所にある犬丸神社の巫女さんで、そして犬丸学園の古文教師でもあって。
更に付け加えると、最近結婚したばかりの新妻で、旦那の話をするときは頬が緩みっぱなし。
性格はおっとり。一緒にいる人まで動きや思考を鈍くさせる特殊才能を持っている。
そんな人だ。この葵先生という人は。

 葵 :「えへへぇ~」

……なんかあったのか?
いや、葵先生はいつもこんな感じかもしれない。
いつも、ほのぼのオーラで俺たちを包み込み、癒してくれる葵先生。
その優しい微笑みに、普段の俺たちなら否応無く癒されるところなのだが……

律 子:「………………」

今日に限って、教室の後ろに“あの人”かいるんだよなー。
これがもし漫画なら、ゴゴゴゴゴ、って感じの効果文字が入りそうな、そんな空気。

敬 二:「………………」

恐る恐る振り返ると、その人物と目が合ってしまった。
きっ、と睨まれて、慌てて前を向きなおす。
いたよ……いましたよ。
一部の学生の間では猛獣扱いされ、学園最強、または学園の影の支配者とも呼ばれている――律子先生が。

律 子:「……ふん」
敬 二:「うう」

怖ぇぇよっ、なんでいるんだよっ。
律子先生の授業は次の英語の時間であって、古文と関係ないだろっ。
そもそも俺は、入学当初からツッコミたかった。
律子先生、その手にしている長い棒状の物体は、いったい何なんですか……と。
誰がどう見たって、あれは日本刀だと思うんだが。
本人曰く『ただの模造刀だ』との事だが……
だからって、その模造刀の鞘で、授業中に居眠りをした教え子をボコボコにするのは問題アリだろう。

 葵 :「はい、ここまで重要ですよ~。ノートにしっかりとってくださいね」

再び、癒しに満ちた葵先生の、優しい声が聞こえてくる。
しかし背中には『貴様ら一字一句ノートに書き取るんだ。手抜きは許さんぞ』という律子先生の重圧が伝わってくる。
敬 二:「はぁぁ……」
律子先生が教室の後方に立っているというだけで、葵先生のほのぼの感が相殺されているぅ。
……勘弁してください。なんでいるんですか? マジで。
2人の関係は、仕事の同僚というだけでなく、嫁と姑でもある。
葵先生の旦那は、律子先生の義理の息子なのだ。
けれど、これまで学園ではそんな関係を、あまり見せたことがない。
だから、ますます律子先生が今、この時間、この教室にいるのかが分からない。
 葵 :「えーと、黒板消しは……」
 葵 :「きゅっ、きゅっ、きゅ……あっ」

葵先生が手を滑らせると、チョークが置かれている台に、黒板消しが落ちてチョークの粉が舞う。

 葵 :「けほけほっ、煙たいですぅ」
律 子:「あ、葵君っ! 大丈夫かっ!?」
律 子:「おい窓側の席の者たち! 窓を全開にしろ!」

突然の命令に、窓側にいる席の学生たちが、急いで窓を開ける。
その間に、だだだだだ……と律子先生は教壇へと駆け寄って、葵先生の手を握り締めた。

律 子:「だから言ったのだっ、無理はするなとっ! 本当に大丈夫なのか!?」
 葵 :「はい、ありがとうございます」
律 子:「まったく……あまり無茶はするな」

待て。今のどこが無茶なのだ。
黒板消しを落としただけのように見えるんだが。

律 子:「よしわかった、これからはワタシが黒板を消そう」
律 子:「葵君は、無理をせず、楽に授業を進めるといい」
 葵 :「でも、これくらいは……」
律 子:「ダメだ」
 葵 :「わ、分かりました」

律子先生って、葵先生には随分と優しいらしい。
……単なる過保護なのかもしれないが。
その数千分の一でも、俺に優しくしてくれたらいいのに。
葵先生は教科書を持ち、教室内を歩き始めようとする。

律 子:「待て!」
 葵 :「はいっ?」
律 子:「今、車椅子を持ってくる」
 葵 :「だ、大丈夫です。一人で歩けますから……」
律 子:「心配だ」

俺は律子先生の方が心配だ。

 葵 :「それに、車椅子では教室を歩けませんし」
律 子:「ふむ……」
律 子:「では、ワタシが手を引こう」
 葵 :「あ、はい。それならお願いします」

律子先生スッと手を出すと、葵先生がその上に手を乗せる。

律 子:「葵君、足下、気をつけて」

凛々しく背の高い律子先生にエスコートされた葵先生は、巫女服を着ながらにしてお姫様みたいだった。
教室中の誰もが違和感を感じていたが、律子先生が怖いので誰も口にはしない。
普段とは全く違った緊張の中、葵先生の澄んだ声が再び教室に響く。

 葵 :「清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』……」

ぽとり。
先生の進行方向にある席の学生の肘に消しゴムが当たり、床に落ちた。

律 子:「葵君、危ないっ!!」
 葵 :「ふぇっ!?」

律子先生はすかさず刀を抜き、消しゴムを上から突き刺す。

律 子:「進行方向に落ちた消しゴムに気をつけられよ」
 葵 :「わ、分かりました。ありがとうございます」

刀が刺さった消しゴムを持ち主に返すと、葵先生が再び教科書を読み始める。

 葵 :「そして吉田兼好の『徒然草』は、日本三大随筆と呼ばれています」
 葵 :「ふぁっ」

片手で持つ教科書が手から滑りそうになり、それを慌てて取ろうとしてバランスを崩す先生。
そんな葵先生を、律子先生が慌てて支える。

律 子:「大丈夫かっ!」

スッとその場に屈み、葵先生のお腹に耳を立てる。

律 子:「ふぅ、大丈夫だったようだ」

額に浮かぶ汗を腕で拭う。

敬 二:「………………」
律 子:「気をつけられよ」
 葵 :「はい」

葵先生は、気を取り直して再び歩き出す。

 葵 :「この徒然草は、今から約700年前にまとめられたと言われてるんですよ」

ちょうど俺の席まで来ると、葵先生は立ち止まり、俺の顔を見てにっこり微笑んだ。
なんでそこで俺に笑いかけるんだーっ!?
葵先生と歩いている、律子先生も俺を見る。
葵先生はいいけど、律子先生の視線は怖いから、こっちを見ないでくれ!

 葵 :「700年も昔の随筆が残ってるなんて、すごいですよね」
敬 二:「そ、そうですね……」

俺は、顔を引きつらせながら笑顔で返した。

律 子:「高島ぁぁっ!」
敬 二:「は、はいっ」
律 子:「その気の抜けた返事はなんだー!」
律 子:「700年だぞ!? セブンハンドレットイヤーズアゴ!」

なぜ英語で言い直しますか。

律 子:「お前には努力と根性と感動と情緒が足りんっ。校庭700周してこいっ」
敬 二:「なんでーっ!?」
律 子:「700年にあやかってだ」

むちゃくちゃ言い出したぞ、おい!?

 葵 :「大丈夫ですよ、律子先生」
 葵 :「彼はちゃんとお返事してくれました」
律 子:「そうか……?」
 葵 :「それに、今日は素敵な日ですし」
 葵 :「お空は晴れているし、風も優しいし……ふふっ」
律 子:「む……葵君がそう言うなら、今回ばかりは許そう」
敬 二:「あ、ありがとうございます」

いくらなんでも、いきなり校庭700周はないだろう。
校庭が1トラック200メートルだから……140キロ走れってか。
フルマラソンを3セットするよりキツいと思う。というか死ぬ。死にます。

律 子:「先生、そろそろ自習にしたらどうだろう」
 葵 :「え、まだ10分しか授業してませんけど……」
律 子:「体にさわる」
 葵 :「これくらいは大丈夫だと思いますけど」
律 子:「しかし……」
律 子:「では、残りはワタシが皆に教えよう」
 葵 :「ええっ?」

葵先生の驚きの声と同時に、教室中の空気が凍り付く。
けれど、ざわめくようなことはない。
ここは大人しく流れに身を任せるのが一番利口だ。
律子先生に睨まれると面倒なのは皆が知っている。
さっきも言ったが――律子先生は、この学園の英語講師にして影の支配者。
逆らおうものなら、即タイマン勝負。
強さは人外で、彼女と戦うということは、一個艦隊と戦うのと同じこと……という噂だ。
その数々の武勇伝は、上級生や卒業生たちの口伝により、俺たち新入生にも伝承されている。
クマを素手で倒したとか、動物園から逃げたライオンを手懐けた……なんてのは序の口。
指圧の十六連射でスイカを破壊したとか、屏風から虎を追い出して退治したとか、青い衣をまとって金色の野に降り立ったとか。
明らかに方向性の違う都市伝説も紛れ込んではいるようだったが……
何はともあれ、先生の存在感はやたらデカイのは確かだ。

 葵 :「あの、ずっと私の傍に付いていて下さる、というのはどうでしょうか」
律 子:「むぅ……」
律 子:「本当に大丈夫なのか?」
 葵 :「はい」
律 子:「………………」
律 子:「……わかった」
 葵 :「ありがとうございます」

ほっ……

律 子:「高島、今、あからさまにホッとしたな」
敬 二:「してませんっ」
律 子:「とてもそうは見えなかったが」
敬 二:「本当ですっ」
敬 二:「てっ」

律子先生は刀の束で、軽く俺を突いた。

律 子:「例の委員会、サボるんじゃないぞ。ちゃんと待ってるからな」
敬 二:「うっ、はい……」
律 子:「返事は元気よく!」
敬 二:「はい!」
律 子:「うむ、それでいい」

ここは軍隊か?

 葵 :「それでは、授業を再開しましょう~」

葵先生はニコニコしながら、律子先生と教壇に戻っていった。

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