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武将史実

 第7代当主・今川氏親とその正室である中御門宣胤の娘(寿桂尼)の子で幼名は芳菊丸。多方面に才覚を発揮したが、特に内政面において辣腕を振るい、天文22年(1552年)には『今川仮名目録』の追加法を制定し、さらに商業保護や流通統制、寄親寄子制度による家臣団の結束強化を図るなど優れた行政改革を進めた。 後にこの政策は江戸幕府を開府した徳川家康によって踏襲されている。 今川氏の戦国大名への転身を成功させ、所領も駿河・遠江・東三河から、西三河や尾張の一部にまで拡大した。 しかし尾張に侵攻した際に桶狭間の戦いで織田信長軍の奇襲により戦死。