黒田官兵衛
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史実紹介

黒田孝高。通称の官兵衛および、出家後の如水の名で知られる。洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 竹中半兵衛と共に秀吉に仕え『二兵衛』と称された。荒木村重が信長に謀叛した時、説得に赴くが失敗、投獄される。この際、事実を知らない信長は官兵衛も裏切ったと考え子を殺すよう命じるが、半兵衛がその子を匿ったという話からも、二人の友好な関係がうかがえる。 秀吉の元で多大な活躍をした官兵衛だが、その恩賞は功績に比して低かった。これは官兵衛の才を秀吉が恐れて、大きな力を与えたくなかったと考えたためだと言われている。築城の名手としても知られ、多くの城の縄張りや助言を行っている。 秀吉没後、関ヶ原の合戦に際しては徳川に与し、東軍の武将として戦い功を挙げた。腹黒い人物だったとする説もあるが、主君を裏切ったことは一度もない。