毛利家譜代の家臣。志道家は毛利家の支流の坂広秋の四男元良が安芸の志道村に居住して志道を称したのに始まる。毛利興元の代から毛利家執政を務めていたが、弟元就の器量を早くから見抜き、親交を結んでいた。興元とその子、毛利幸松丸の夭折後、元就に宗家相続を要請し、十五人の宿老と共に元就に忠誠を誓約した。晩年は隆元の補導に尽力し、家臣の立場から名将の心得を説いた。「水あっての船。家来あってこその大名ではないか」という言葉は有名である。