稲富流砲術の開祖。祖父・稲富祐秀から砲術を学び、それを発展させて稲富流砲術を創始したといわれている。合戦の際に具足を2枚重ねて着ていたため二領具足の異名を持つ。1600年、関ヶ原の戦いにおいては、細川氏の大坂屋敷に居て、忠興の妻である細川ガラシャの警護をしていたが、ガラシャが石田三成の人質作戦に巻き込まれて死去すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡したという。そのため戦後に忠興から恨まれて殺されそうになったが、徳川家康にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命された。