豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃からの最古参の家臣の一人で、蜂須賀小六とは義兄弟の盟を結んでいた。 本能寺の変による信長没後から秀吉が天下人となるまで、小牧・長久手の戦い(1584年)、賤ヶ岳の戦い(1583年)、四国攻め(1585年)などの戦いで武功を挙げる。 豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、豊臣秀次付の家老となったが、1595年に秀次が謀反の罪で自害した際に、長康が秀次を弁護したことから連座として自害を命じられた。